♨ 遊郭のお勉強 ♨

吉原遊廓 空海オーナー遊馬

2009年02月19日 21:38


♨ 遊廓の歴史 ♨

「遊廓・遊女」と聞いて引いてしまう方もいらっしゃるでしょう。
一般的には、遊女=売春婦と思われがちです。
しかし、そう頻繁に春を売る事をしていたわけではないのです。

ちなみに「女郎(じょろう)」という言葉の由来は、江戸時代の大奥の
格式に「上臈御年寄(じょうろうおとしより)」といって
将軍や御台所の御用や相談役を担当し、御台所に同伴して京から来た公家出身の
女性が多い身分の者を言います。
簡単に言うと、御台所の次にえらい人ですね。
この「上臈(じょうろう)」がなまって、女郎(じょろう)になったという
説もあります。

遊廓という言葉が誕生したのは豊臣政権の時であり、遊廓として京都と今の大阪の
道頓堀川北岸に設けられました。
そして江戸時代にはいり、東京人形町付近にも遊廓が作られ、吉原遊廓と
呼ばれました。
その後、吉原遊廓は明暦の大火(1657年 明暦3年)に焼失し
浅草へ移転しました。

この他にも江戸時代には、全国20数カ所に公許の遊廓が存在し、最大の遊廓は
江戸の吉原で吉原が出来た頃には300軒近い遊女屋があったと言われています。
そして鎖国時、唯一の西洋との窓口として栄えた長崎に、丸山遊廓が誕生したのは
1639年(寛永16年)ごろです。
この丸山遊廓も、とても人気だったようで多くの歌人が歌に残しています。

遊廓は代表的な娯楽の場であり、文化の発信地でもありました。
富裕な町人や、武家・公家を客としていたため、上級の遊女は、芸事に秀で
文学などの教養が必要とされました。

遊女には位があり、不明な点や諸説ありますが花魁(おいらん)に相当するのは
おおむね次の遊女です。

●太夫(たゆう、たいう、たいふ)
:高級遊女で吉原でもわずかな人数しかいなかった。

●格子(こうし)
:太夫に次ぐ気品と美貌、そして教養を備えた遊女。揚げ屋でしか客とは接しない。
太夫に準ずる遊女であるが、やはり宝暦頃に姿を消した。

●散茶(さんちゃ)
:自分の気に入った金持ちだけしか相手をしなかった太夫や格子女郎に対し
庶民的でどんな客も相手にしたことから
男をふらない女郎という意味で散茶(茶葉を振り混ぜないでそっと淹れるお茶)
という言葉にかけて散茶と呼ばれた。
元々は太夫・格子より下位の遊女であったが、後に太夫・格子がいなくなったため
高級遊女を指す言葉になった。

●梅茶(うめちゃ)
:梅茶女郎は散茶よりも劣っていたことから、まるで散茶に水をうめて味を薄く
したようだということから「梅茶(埋め茶)」と呼ばれた。

●座敷持(ざしきもち)
:普段寝起きする部屋の他に、客を迎える座敷を持っている遊女で禿が付いている。

●呼出
:散茶・座敷持のうち、張り店を行わず、禿・新造を従えて茶屋で客を迎える遊女。

●切見世(きりみよ・きりみせ)
最も格下の遊女。遊女屋で直接客の相手をした。

◎(振袖)新造(しんぞう)
;まだ客をとらない遊女のこと。だいたい16,17歳で客をとる。姉さん遊女の
お付き人になり身の回りの世話をする。

◎番頭新造
:器量が悪く遊女として売り出せない者や、年季を勤め上げた遊女が務め
マネージャー的な役割を担った。

◎禿(かぶろ・かむろ)
:7歳〜8歳頃と若い頃に遊廓に売られてきた女子、遊女の娘。遊女
(特に上位の花魁)の身の世話などを奉仕し、遊女としてのあり方などを学んでいく。
彼女達の教育は姉貴分に当たる遊女が行った。

◎は、正式な遊女ではないようです。

そして面白い事に、花魁はお客より格が上だったんです。
座敷では花魁は上座に座り客は常に下座に座っていたそうです。

初回(一会目)は、花魁は客とは離れたところに座り、客と口を利かず飲食もしなく
この際、客は品定めをされ、その花魁は、自分にふさわしくないと思ったら
付き合うことができなかったのです。
そのため客はたくさんの芸者を呼び、派手に遊ぶことで財力を示しました。

二会目には、少し近くに寄ってくれるものの、基本的には初会と同じでした。
三会目にようやく馴染みになり、客は馴染み金(ご祝儀代)を支払い
床入れ出来るようになります。

ちなみに馴染みになると、客が他の花魁に通うのは浮気とみなされます。客は捕らえられ
お金を支払って詫びを入れたといいます。
おっかないですね〜

もちろん花魁には馴染みの客が何人もいるため、時には指名が重なることもあり
その際は名代といって新造が相手をしますが、新造とは床入れ出来ません。
一方で通常の揚代金を取られることになります。

あと、「ありんすぅ〜」などの言葉は、廓詞(くるわことば・なますことば)
と言います。
これは色々なお国から来る遊女達が、訛(なまり)を隠す為に話していたみたいです。

では、客はどのくらいお金を払って遊んでいたのでしょう。
吉原のトップクラスの「太夫」を初めて揚げる場合、置屋から揚屋に呼ぶだけで
約107万2000円、他に初会の宴会代が約60万円。

なじみになり床入りがかなうのは三会目なので、ご祝儀代なども含め
総費用は約600万円になりました。
あまりに高額なので、特別な大金持ちでなければこうした遊びは出来なかったので
そのためか、江戸初期には70人以上もいた太夫の数は徐々に減り
元禄期(1688年˜1703年頃)には3〜4人になり、江戸中期頃にはいなくなった
そうです。

とはいえ、高級な遊女が全くいなくなったわけではなく、江戸中期頃からは
それまでの太夫より格が下だった「散茶」の中から「昼三(ちゅうさん)」
いわゆる「花魁(おいらん)」と呼ばれる遊女が現れました。

この頃の遊女の位は、おおむね次の通りです。

●呼出(呼出昼三)
:昼三の中でも特に優れた遊女。張見世(はりみせ)をせず
仲の町で客に会ったのでいう。

●昼三
:最高位の女郎。昼だけ呼んでも夜だけ呼んでも揚げ代が三分かかることから
そう呼ばれるようになった。

●座敷持ち
:部屋持ちの中で、さらに客を迎える座敷をもっている遊女。

●部屋持ち
:自分の部屋をもち、そこで寝起きして客もその部屋に迎える事のできる遊女。
部屋には箪笥、長持、鏡台、火鉢、茶道具など所帯道具が揃えてある。
遊女屋の格式や遊女の等級によって家具の質に差があり
上客の付いた遊女は客に貢がせるが
そうでない者は借金をしてでも自腹で揃えることになる。

◎遣り手(やりて)
:見世(みせ)を見て回り、客に遊女を紹介したり見世の切り盛りをする役。

ちなみに「見世」は、簡単に言うと見世の中から格子越しに顔を
見せるところですね。
いわゆる「お店」ですね。
遣り手は、長年遊女を勤め上げたベテランがやる役です。

「遣り手」を使う言葉で「あいつはやり手だからな〜」とか言うじゃないですか。
絶対に、遊廓から発祥した言葉だと思うのですが・・・w

そして、花魁と遊ぶのは、かつての太夫に比べればずっとリーズナブルでしたが
それでも「呼び出し」の昼三と遊ぶには、約15万円必要で
他に祝儀代や飲食代もかかったそうです。

そして、遊廓の運命は戦後GHQの政策により解散に追い込まれます。
しかし、現代ではその地に風俗店が我が物顔で営業をしています。

まだ、遊廓があった方が良かったと思うのは私だけでしょうか。
金持ちが、遊廓で金をバラまき、それが巡り巡って庶民に行き渡り
これで日本は平和になった!
...という感じにいきませんかねぇ。。

以上、遊廓の歴史についてでした。
ご拝読、ありがとうございました ^^

う〜ん 賢くなった♬